BIG BOREDOM in WWW > BACKUP FILES > ENTRANCE
P-HOUSE TOPTEXT-P / WORKS / D-Pepper / イメージ・キャラクター / INFORMATION
/ OKAZAKI NIGHT / 村上隆マンガ道場

村上隆マンガ道場

 やっぱ岡崎京子“River's Edge”in CUTIE3月号でしょう。しかもこの回は不吉なvol.13。田島カンナが公団っぽい住宅街の広場でいきなり燃えているシーン。これは大友克洋の『童夢』でのビル群をエッちゃん&チョウさんらが飛行するカット以来の大ショーゲキ&大収穫。マンガでしかできない表現なのに、映画を観ているみたいに、しかも、音までがもれ出し、その音は極端にミニマルになり、まさしくスーパーな美術作品を観ている時のような絶対0度的な判断停止状態。人が燃えている…パチパチ。このシーンは久々にマンガの臨界点の外周を1mm動かしたと言えます。岡崎氏本人はマンガ文法の“技術”としてこのシーンを入れたのだろうか。それとも、描いている時のグルーブ感を優先したのだろうか。マンガは詩となり文章となり音となり、そして全部となって全部で消える。一瞬で!こんな表現、選ばれし天才にしか出来ないでしょう。谷口ジロー等が、大友やメビウスや宮崎駿、そして今日の岡崎にみるこのようなマンガを越えた普遍性を確かに受信し、自らの表現に消化しようと試みてはいますが、未だ「何か違う」レベルで止まってしまっています。天才とはかくも恐ろしく、表現のレベルに差をもたらすのでしょうか。

 アートとは先の岡崎River's Edgeのシーンを見てしまった時のようなエフェクトそのものを指すことだと思うのです。例えば劇場版『銀河鉄道999』のラストのメーテル星崩壊シーン。それからデヴィットパーソンズというパフォーマーの『コート』という演目を観た時。『999』ではクライマックスに立ち上がる太陽のコロナを実写的ノンフィクショナルに克明なフルアニメで描きあげると共に、松本零士メカワールド&金田伊功ワールドをスーパーフィクショナルな動き(カクッカクッキューン、パラパラ!)、やはりフルアニメにおいて描きあげた説得力、金田伊功の天才と友永秀和のアルチザンが見事に合体し、そして東映動画の撮影の技術力を加えたラストシーンは現在のCG+αアニメ技術を駆使したとしても越えられない程の普遍性を獲得しています。もう一つのパーソンズは『コート』。これはフラッシュ効果によって、パッとフラッシュが点灯している瞬間に人(パーソンズ)が空中に飛びあがり、この効果が連続することで、彼が空中浮遊しているように感じてしまう。しかもちょっとした演出でそのフラッシュエフェクトに微妙な時間的ズレが生じ、ライヴという時間軸に狂いを生じさせて、これもやはり普遍性を獲得してしまった。そこにパフォーマーが在るか在ないのかもわからない。ライブなのかフィクションなのか思考停止の快感!!このようなアーティスティックな瞬間とリバースエッヂの“パチパチ”シーンは非常に近い!!何度となく頭の中でリフレインが可能で、作品の構成の前後をバラバラに再構成しても、なお存在し続ける力を持っているのです。

 これを構造的に実験したアニメーション映画として『不思議の国のアリス』があります。そのテクストには全くの両義性を合わせ持ち、時に不条理こそが真実に、誕生日以外の日が何でもない日として祝福され、全くもってパラドクス、全くもってスバラシイ!!アニメというフィクショナルな時空間に命を与えるのにこれほどまでに大人のスパイスを使ったことは、現在においてもなお作品の技術的完成度において難しいプロジェクトではあります。判断停止の状態は時として笑いと共にやって来たりもして、ゆえにギャグとHiARTは遠いようでいて近いのです。

 判断停止を呼び込む表現。これがARTの意味であり、マンガが今限りなくARTしかもHiARTとしてのエリアを越境しようとしているのです。テクスト(マンガでは“ネーム”と呼ばれている)は判断を促すためにあるのではなく、停止させるためにある。

 ともあれマンガ→ギャグ→判断停止=笑い→ARTという構造をガッチリとみせてくれた岡崎京子氏リバースエッヂvol.13に今月は感謝!!

 岡崎京子展がいよいよP-HOUSEでスタートしました。いやホント初日はマンガの原画展というかアートエキシビジョンというか超絶的な興奮がありました。マンションの1室を改造した(しかもプロデューサー秋田敬明氏の自宅。自宅ですよホントにここに寝起きしているという暴挙!!)狭いスペースにお客さん200名以上が列を作って並んでしまって…。FFDオープニングイベントには1000名程の人達が集まってくれ、レクチャー時にはみんな体育座り状態でステージをかこんでくれて(周りに座ってくれたほとんどの子がキューティーキッズだったような気がする)これは本当に事件でした。ここまでのオープニングEnergieがあるマンガ&アートショウを誰か見たことあるでしょうか?(オープニング終わって岡崎さんがスタッフのみんなに抱き付いてキャーっつー感じで地獄戦士魔王シスコ目に浮かぶ涙キラリ!)

 それでP-HOUSEでの展示の特色はデジタローグ&プロペラアートワークスが協力してくれた岡崎氏のマンガ全ページのMacでのブラウズ1カット1.5秒のデジタル紙芝居と、そのかたわらに置いたノートでしょう。Macの方はものスゴイスピードで画面がカチャッカチャッと変化してゆき、エキシビジョンディレクターの布施先生いわく「凄いスピードでマンガが網膜に写り込み、マンガとしての判別がつかなくなった時、Macの画面が1つの絵画となる」ということでみんなハマッちゃって、まさしく展覧会というよりもライブな小屋に近いのりです。っつーかラブホっつーか、まんがの森入口ってな感じかね。狭い展覧会場の床に座って長時間ノートに書いている姿は、代々木駅のらくがきコーナーをホーフツさせていて、そういえば代々木アニメーション学院からのデカイ花束が印象的だったなぁ。

 で、そんな感じで先日、新幹線に乗ってました、朝の。…で岡崎さんの『愛の生活』を読んでいて、チョード『天使達のシーン』が聴こえてきていやー泣けたっす。で右側のワイドな新幹線の窓に富士山がグーっとスソ野を広げていたりして…いやー日本に、日本語文化圏に住んでてよかったと、あんましうまくないコーヒー飲んで思いけり。それで我想うゆえに我マンガを想う。マンガはやっぱりネームなのかということ。大友をズッと見ていてマンガは“絵”だと思っていたれけど、手塚もマンガの絵は記号だと言っていて言葉こそが重要なのかなと、でなくちゃアシスタントにバンバン絵を描いてもらえないよね。絵は記号のレベルでストップして、トーンはりとかへのこだわりが微妙に軽くズレているとこらへんがいいんだろうね。マンガ家だっていろんなタイプがいるから、やっぱり絵だ!っていう人も松本大洋みたいにいるにはいますよね。でもやっぱり『リバースエッジ』のラストなんかホント『天使達のシーン』が聞こえて来そうで、マンガアルチザンとしての1つの完成が見えますよね。っていうかFFDでのレクチャーで技術として完成したと言ってたし。…で今後の岡崎さんに望むのことは、さらなるマンガ内のテクストの迷路を入り組ませてもらって、その迷路自体をもカタルシスとなる新文法へのチャレンジを期待します。とにかくP-HOUSE岡崎京子展『ぼくらはいったいどこへ行くんだろう』はTOKYOの事件!!必見です。是非!!

●ここに掲載するテキストは、「PEPPER SHOP」に連載さている「村上隆マンガ道場」のテキストを引用させて頂きました。