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/ OKAZAKI NIGHT / 村上隆マンガ道場

岡崎京子

布施英利

秋田敬明

椹木野衣

村上 隆

布施英利 HIDETO FUSE
批評作家

布施英利 1960年生まれ。東京芸術大学美術学部卒。
同・大学院博士科程終了学術博士の学位を受ける。美学美術史を学んだ後、東京大学医学部(養老猛司研究室)で解剖学の研究を行う。大学院在学中から、著書を出版。脳、身体、アート、電子テクノロジーなど複眼の視点から現代文化を解剖する。
「死体を捜せ!」(1993年)の出版で"死体ブーム"の旗手として話題を呼ぶ。

著書「脳の中の美術館」(筑摩書房、1988)
「ハイパーアートの解剖学」(冬樹社、1991)
「電脳美学」(筑摩書房、1992)
「死体を捜せ!」(法蔵館、1993)
「脳裏一体」(白水社、1993)
「電脳的」(毎日新聞社、1994近刊予定)
共著「解剖の時間」(養老猛司との共著、哲学書房、1987)
編著「図説・死体論」(法蔵館、1993)

ぼくらはいったいどこへ行くのだろう

 これまでマンガを一度も読んだことがない、などという人がいるだろうか。しかし「現代美術」などというものを一度もみたことがない、という人は多くいるだろう。もちろん問題は「数」ではない。問われるのは「質」だ。ならば、マンガを読んで一度も心を動かされたことがない、という人がいるだろうか。ドキドキしたり、笑ったり、気分爽快になったりと、さまざまなカタルシスを誰もが体験している。しかし「現代美術」を見て、本当に深い感動をした人がどれほどいるだろう。街のギャラリーや雑誌に溢れている情報のなかの現代美術に、どれほどの感動があるだろう。それに比べれば、マンガの方が遥かに面白いし、感動を得る確立も高い。「質」でもマンガが勝っている。

 マンガは、絵巻物や大和絵といった伝統的な絵画、さらには映画や写真といったメディアの影響と取り込みつつ完成された表現だ。マンガは、紙に印刷されるメディアだから「視覚表現」される。しかし絵画と違って、そこには「時間」や「音」など、さまざまな感覚が盛り込まれている。マンガは、ストーリーという「時間」に沿って展開していく。また台詞を読むと、こちらの脳のなかには「音」が聞こえてくる。またマンガには「時代」が描かれ、ファッションがうごめき、「愛」が語られる。

 マンガには全てがある。

 マンガは、視覚表現のなかで「総合芸術」としての可能性を追求したメディアなのだ。マンガこそ、現代の文化の本流である、といってよいのではないか。

 しかしマンガは文化として「差別」されている。美術とは、美術館に飾られる絵画ばかりが優れていると考えている「19世紀的な」美学に縛られている人もいまだ少なくない。しかしそれも時間の問題だろう。「時間の問題」といえば、こんな例がある。かつてノーベル賞をとったある物理学者が、自分の説が科学界に受け入れられるのに30年かかったと回想したことがる。その「30年」とは何かといえば、皆が彼の説を理解するのに要した時間ではない。「老大家」は新しい説など受け入れない。自分がこれまで進んできた道を信じるのみである。ただ若い学生のみが、新しい説に耳を傾け、そこに真実を感じとる。そして「老大家」が引退し、若い学生がその分野で地位を占めるようになると、新しい説は認められる。「30年」とは、世代交代に要する時間なのだ。人は一度受け入れたものを捨てて、新しいものを受け入れたりしない。だから生物界には世代交代もあるのかもしれない。

 世代交代は、種が生き延びる為に必要なシステムなのだ。

 ぼくは「権力の委譲」のことをいっているのではない。新しい文化の登場とその受容について言っているだけだ。たとえば最近、国連で平和を祈る場面でジョン・レノンの「イマジン」が流れたことがあった。ビートルズといえば、かつて不良の音楽だった。それが国連で流される。頭のカタイ「PTA的な」大人たちの考えが変わったのではない。ビートルズを聞いて育った若者たちが、国連で重要な地位を占めるほどの大人になったのだ。

 そして今、それを「マンガ」でするべき時代がきたのではないだろうか。今日の現代美術は、マニアックな世界に「閉じて」いて、インパクトある文化の創造をなしているとは言いがたい。また上野の美術館で年中行事のように発表される美術も、停滞の傾向が著しい。このような悲観的な美術の状況に対し、これまで娯楽としてしかとらえられていなかったマンガを、現代アートとして位置づけ、そこに文化の本流があると考え直す時期が今なのではないだろうか。かつて浮世絵という大衆メディアが、西洋の画家たちの「発見」によって美術を変えたように、いまマンガという「新しいアート」が行き詰まりの兆候はなはだしい現代アートに衝撃をあたえる時がきたのだ。

 美術家は、謙虚に「マンガ」から学ばなければならない。自分たちはすでに「追い越されてしまった」ことを自覚しなければならない。ダイナミックな構図、スリルとユーモアと洞察に満ちた内容、決定的瞬間をとらえるアイデアの卓抜さ、マンガには視覚文化を支えているエネルギーが溢れている。

 岡崎京子は、そのようなマンガ家のなかで現代の美術や文学を凌駕しうる一人である。彼女は1963年生まれ。「PINK」(1989年)や「東京ガールズブラボー」(1993年)などによって、都市に暮らす女の子の生態を描き、おしゃれな絵柄と現代思想チックな味付けで、熱狂的な読者を得ている。また彼女は従来のマンガ家のイメージを越え、彼女自身のキャラクターがファッションとして若い世代に強烈な影響を与えてきた。さらに1993年より雑誌「CUTIE」に連載している最新作「リバーズ・エッジ」では、高校生たちが死体と向き合うという衝撃的な内容で、新たな展開をみせている。

 この展覧会では「都市のなかの死」が大きなテーマになっている。死体は、今日の都市ではめったに見る機会がない。それは江戸以降にこの国で進められた「脳化」のなれの果ての姿ともいえる。しかし人がいるかぎり、死体はつねに存在する。都市が自然を排除して成り立っているとすれば、死体は「都市に残された最後の自然」だ。都市の風俗を描き、若者のリズムを表現する岡崎京子が、このような「死体」という究極のテーマと向き合ったことはとても興味深い。

 本展では、現代のぼくたちにとってもっとも本質的なテーマである「都市」や「死体」さらには「性」について、マンガというメディアを通して考えてもらおうとした。さらにはマンガを、いわゆる「娯楽である」という色眼鏡を外してみたとき、いったいどのように見えるか、そのメッセージを感じてもらえればと考えている。このギャラリーに展示されたパソコンのなかで、次々と現われる彼女のマンガを見ていると、ストーリーも場面設定も読み取れなくなる。そこに展開される膨大な数のマンガと、スピード感にめまいのようなものを覚えてくる。そしてやがて、すべての殻をはぎとられた「純粋な絵画」がたち現われてくる。それをみて、ぼくは思う。

 マンガは、美術なのだ。

 第一級の、ぼくたちの時代の、美術の本流なのだ。

(ふせ ひでと / 岡崎京子展ディレクター)